帆具・舟の完成
マスト用に伐ったばかりの松の木が既に届いていました。私が古い手斧で皮を剥ぎ富雄さんがそれを最終的な形に仕上げました。底の部分で一寸角、徐々に拡げてマツカキの位置で二寸二分の二寸一分角、それから丸くなって直径一寸の先端まで徐々に細くなっていきます。サバニのマストは舟の三分の二の長さにしないといけないと下門さんは言ってました。彼はまた舟の船首にマストを括り付ける架台も作りました。
下門さんはマスト基部のほぞ穴の位置を決めようとして、マストをマツカキに据えてクランプで固定しました。すこし下がって舟を注意深く見つめました。船尾よりの舷側板の縁とマストとが直角に立つようにしたかったのです。マストの基部用には全部で三つの穴を作る事になっていました。サバニ乗りは風の強さに合わせてマストを調整します。風が強いときは後ろに傾け、風が弱いときには前に傾けます。また、サバニにはマスト楔と言う興味深い仕組みがあります。マストはマツカキに三つの楔で固定されます。風が強い時はいつも横の楔を重ねてマストを風側に片方に傾けます。三番目の楔はマストの前後に使ってマストの傾きを微調整するのに使われます。
糸満の山城洋介さんが私たちのサバニの帆を作りました。それは私が島を去った後に到着して取り付けられました。それは綿製で和サンザシ(シャリンバイ)の木で染められてあり、山城さん自身が制作しました。帆の形は下門さんと緊密に仕事をする中で制作されてきたものです。セイルの話が出る度ごとに下門さんは、サバニの帆の曲がった縁は彼の父親由来のデザインなのだと言う事を、そしてそれをとても誇りにしているということを、私に語るのでした。
2010年の一月十日、日曜日が私の舟作り最終日でした。2009年の十一月十六日から四十八日間この仕事に携わった事となります。富雄さんと私は船体内部全てに油を塗りました。それは前に六十番のペーパーをかけて、百番で仕上げてありました。内側と外側とを合わせて概算では約二十リットルの天ぷら油を使った事となります。後から、山城洋介さんが一リットルの純粋なサメ油を持ってきて、それで私たちは最終塗り仕上げをしました。
次の週以降も毎日、いつものように私は仕事場に立ち寄りました。下門さんは木挽き台に腰掛けてベイラー(あか汲み)を作っていました。ユトゥイと呼ばれています。この道具は多くの点でサバニを集約しています。それは彫刻作品です、完全に機能的であって同時に心奪われるほど美しいものなのです。下門さんが彼のデザインと腕とを誇りに思っているのはもっともな事です。
下門さんはユトゥイにも舟や櫂のように、彼の名を表す二つの漢字から出来ている印を彫り込みました。ユトゥイの作り方を知っている事のほうがサバニの作り方より珍しいものになっていると彼は言ってました。堅い松の単材で作られたユトゥイの底は曲面になっていて、サバニの曲がった底面に合うようになっています。漁師達はよくユトゥイを食器にして、海で魚を切って刺身にして食べていたそうです。でも、ユトゥイを作る技術はなくなってしまったと下門さんは言いました。なぜなら終戦直後から漁師達は木のあか汲みを捨てて、アメリカ軍のヘルメットを使い始めたからです。
下門さんはサバニで使う他の漁具類をよく作ったものでした。漁師達が食べ物と道具を運ぶための小さな木の箱をこしらえました、そして魚を見るためのガラスの底が付いた小さな桶も作りました。富雄さんはこの舟用の石の錨を作りました。
舟の完成を祝う式は舟が仕事場を去るすぐ前に行うべきだ。と下門さんは強く思っていました。そして、それは私が去ってから一ヶ月後になりました。このような式典は日本の他の地方では通常は神道が基本となっており、そこに必ず何がしらかの地方の習慣が反映されたものになっています。いつも神主が主宰するとは限りません。実際、船大工が式を主宰して舟の持ち主などが参列すると言ったものが一般的です。進水式の基調は舟を清め、神に持ち主の繁栄と安全を願うと言うものです。舟を清め、神に捧げるものとしては塩や酒や餅が最もよく使われます。
2010年の暮れ、サバニが東京の博物館に送られる前に、式がユタに依り行われました。舟は仕事場の外に出されて、全ての艤装が行われ、地元の九十代の婦人が舟を祝福しました。船首、真ん中、それから船尾とに塩をかけて清め、祈りを捧げました。式の終わった後は参加者全員の祝賀会になり、そして、数日のうちにサバニは東京へと送られていきました。
44
この植物のラテン名は Rhaphiolepis umbellata.です。他の伝統的なサバニ帆や網の染め材は豚の血です。
45
博物館の名前は船の科学館です