結びにかえて
下門さんは沖縄の歴史の幾つかの画期的な時代を繋ぐ生きた架け橋です。子供の時には父親と共に櫂と帆だけが動力のサバニで魚を捕り、一本の丸太から作られたサバニの最後の日々を見てきました。第二次大戦後に沖縄ではすべてが変化しました。伝統的な生活は永遠に変わってしまいました。エンジンが手に入るようになってサバニには帆がなくなりました。漁師の舟は大きくなり、外国のデザインがもたらされました。そして造船業界ではFRPが木に置き換えられました。私たちは例外なくこれを進歩だと言います。そして私たちがそれに依って得たもので評価しようとします。
すこし一休みして、失ったものの事を考えるのは稀な事です。
朝と午後の休憩に、私たちがサンピン茶(沖縄茶)を飲み、クッキーを食べているとき、下門さんはよく若い頃の話をしました。彼が述べる戦前の伊江島は古代の世界に見えます。草で葺いた屋根の家、いつもお決まりの芋と魚の食事、薪を集める話、共同井戸から水を運ぶ事、サバニでのセイリング。片手に舵を取る櫂を携え、もう片手に帆綱を持ち、釣り糸を口にくわえて舟を走らせるのは大変な仕事です、でもそれはまた楽しみでもありました。近代生活のすべての快適さをありがたく受け入れていても、一方で、サバニで海に出る経験は何ものにも代え難いと下門さんが感じている事は私の目にも明らかでした。前年に作った五メートルのサバニ、それは今まで作った内で多分最も良くできた舟だと私に語った舟ですが、その舟を指差して彼は言いました、「もし元気なら、このサバニを持ち出して、浜沿いに行ったり来たりセイリングしてみるんだけどね。残念だね、本当に」
私ははたと気づきました。新しい世代のサバニレーサー達は、この古い単純な真実を見いだしたのです「サバニでのセイリングは楽しい。」
そうです、前を向きましょう。私は彼らがサバニを再興出来る事を望みます。この技術を失う事のリスクはあまりにも大きいのです。そうしてはなりません。
出発日の前日、日没の時に私はグスクヤマに登りました。私の下には島の中心街が広がり山の麓からフェリーの乗り場まで伸びていました。家が建て込んでいる中で下門さんの家と仕事場は見つけることができました。西には鮮やかな緑のサトウキビ畑とタバコ農園のきれいに揃った畝が広がっていました。遠くを見渡すと沖縄の北西岸が見えました。名護市から島の北端までです。北にはただ二つの小さな島が見えるだけでした。かって下門さんのサバニはこれらの海を航海したのです。多分今日でも、かなりの数の彼の舟があちこちの漁港で見かけられることでしょう。
週七日間、サバニを作り続けてこの島の様子や文化を体験する時間があまりありませんでした。いま、急に山の頂上に立って、滞在をとても懐かしく思う気持ちに打たれたのです。地元の人が近づいてきて私と話し始めました。私が幾つかの地元の言葉を知っている事に彼は驚いて山を降り始めるときに振り返り「いちゃりば ちょうでー」と言いました。なにかしら地元の言葉だという気がしたので、どんな意味か聞きました。「会ったから」彼は言いました「わしらはともだち」伊江島で習った最後の言葉は島や人々の事を思えばとても意味あるものでした。
次の日私は伊江島を去りました。途中別れを告げるために下門さんの家に立ち寄りました。近所の人が道で私と会ったので、私は尋ねてみました。このサバニが終了した後に下門さんは何をすると思うか?特に健康の面から見てどうだろうか?八十一の年で、誰でも不可能としか言えないような身体の条件で、下門さんがいかにきつい仕事をしているのかを私は考えていました。「下門さんはずっと船を作るよ。それだけが彼の望みだから」彼は確信を持って言いました「誰もとめられないよ」
別れを告げるとき、下門さんは言いました。若いときにサバニをセイリングした経験が彼にいい舟とだめな舟の違いを教えてくれたと「その時に初めて分かったんだよ」でも彼は付け加えました「もう今はサバニを分かる人は一人もいないよ、皆ファイバーグラスになってしまったからね」
一緒に仕事をした事について彼は言ってました「来てくれて本当に嬉しかったよ。でも沢山写真を撮ってノートを作ったからと言って失敗しない保証にはならないね」そして、私を元気づけようと付け加えました「最初の頃の舟は私も間違いばかりしていたよ」私は彼に再び感謝し、丘を降りてフェリー付き場のほうへ向かいました。数分後に彼と家族全員が波止場まで私を見送りに降りてきました。これは心を打つ日本の伝統です。客人を出発ぎりぎりまで見送り、見えなくなるまで手を振る。フェリーが動きだし防波堤を過ぎるまで私たちは手を振り合っていました。私には下門さんが杖をずっと頭の上でぐるぐる回しているのが見えました。それはみんながもう終えた後も、私の姿が見えなくなってからもずっと続いていました
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