ピージラ(戸立と前戸立)
下門さんが両舷側の間に三本の棒を入れてから、私たちは船体を拡げていた金物類をほとんど取り除きました。この棒は恒久的な船梁が入るまで舟の形を保持する事となります。中央近くで舷側板の幅が狭くなっている所を支えているターンバックルが一つだけ残されました。底部と舷側板との継ぎ目を慣すため、船体内側のサンディングとカンナがけでその日は暮れました。仕上げに納得してから、下門さんは舟の合わせ目にフゥンドゥを嵌め込む位置を記していました。底と舷側板間の三十六個と、クワクワと舷側板を繋ぐ四個です。
私が到着する前に下門さんと息子さんとの手で、船首と船尾との戸立類(ピージラとトモピージラ)の材は大まかに成形されていました。船体内側にフゥンドゥを嵌め込み留めた後、彼らはこの大きな三角形の塊を持ち出してきました。そして戸立類を落とし込む場所が出来るように船首と船尾のクランプを注意深く調整しました(クランプは外してません)。二つの戸立の面は四寸の厚さで、それぞれ繋留索用の穴が木に直接空けてあります。木の芯側が舟の内側を向くようにと下門さんは言ったのですが、それは舟の他の箇所で共通して行ってきた方法とは異なりました。
船尾の戸立は三つの杉材で木芯をちょうど真ん中に合わせて接着して作られていました。下門さんは船首の戸立を舟に載せたり離したりして側面をカンナで合わせました。そして富雄さんがほんの数回、両側の継ぎ目にスリノコをおこない工程を終了しました。定位置に接着するときには舷側板にのみ接着剤を塗布しました、下門さんは細かいおがくずを接着剤に混ぜて濃くしたものを合わせ目の基部にたっぷりと付けました。あまったものは舟の内側の小さい穴や窪みを塞ぐのに使いました。船体にある小さな節は全て私が丸鑿で取り去っており、それらの穴はこれで埋められる事になりました。舷側板を貫通している節はすべて完全に取り除き、先細の杉の栓を作り接着剤を付けて嵌め塞ぎました。
戸立を固定するフゥンドゥはとても深く、およそ一寸の深さです。そして船首の戸立面を横切り、両側の舷側板を繋ぐ特別の倍サイズフゥンドゥが含まれていました。下門さんは私に五分角の杉棒からダボをいくつか作らせておき、舷側板の縁から二寸下がった線に沿わせ中心間の寸法を四寸取って、船体とピージラを貫く四つの穴を十二ミリのドリルで空けました。ダボを油に浸けてその頭が舟の両側交互になるように打ち込みました。固く打ち込まれた後にダボの両端は面に沿うように切り取られ、下門さんは細いほうの端に小刀で割れ目を入れて、小さな杉の楔をその切り口へ打ち込みました。
船尾の戸立も同様にして取り付けられました。目印をつけ、縁をカンナで削り、ほぼぴったりと合わせてから、そのまま接合部に鋸を使って仕上げました。その後、舷側板に接着され、翌日富雄さんがフンドゥで固定し、後に私たちが四つのダボを両側から差し込みました。どちらの戸立も繋留索を結ぶ引っかかりを作るために中央部に大きな三角形の部分を残して製材されていました。その部分に富雄さんはロープを通す一寸の穴をドリルで空けていました。
十二月も終わりが近づき、週七日のスケジュールも終わり、五日間の新年の休みがやって来るようになりました。全員が休みを待ち望んでいました。舟の制作の進行状況はとても良く、もう私の去る前に完成するのは誰にでも分かるほどでした。仕事場の調子はよりくつろいだものになってきました。長い休みを取るようになり、下門さんは昔の日日をよく語ってくれるようになりました。
新年は下門さんの生活の中でただただ一日中のんびりして過ごす唯一の時間で、彼はそれを待ち望んでいました。昔は正月にはどの家でも最低豚一頭は料理したものだ、と彼は言いました。またそれは唯一白米を食べられるときでもありました。「歴史ドラマ等をテレビで見ると、自分たちもあんな風にして生きていたんだな、と思うよ」休み前の最後の午後に、私は仕事場を角から角まで掃き、下門さんは道具を綺麗に片付けていました。仕事場を出る頃には彼は杉の小枝を舟の舳先に飾っていました。