舷側板を削り込む
次の工程は舷側板の各部分を刳り貫いていく作業からなっています。まず、下門さんは材の上に端から端まで注意深く型板を拡げました。型板の外側の線が完成した舷側板の縁を示してあり、型板の上には、舷側板を刳り貫かないで材を残しておく箇所が記してありました、船縁部、船首と船尾、そしてサシカ(床板)を支える材などです。下門さんは型板に上から錐を通して地元ではサシカザンと呼ばれているその支材の縁の印をつけていきました。型板が外されて後、私たちはこれらの印を結んで縁を墨で描きました。
これは重要な事ですが、舷側板をサイズに合わせて切る時、船縁(舷側板の上端です)に沿って型紙より一寸半余分を残しました。なぜそうしたかと言うと、船縁にはかなり斜角が付くからなのです。舷側板が曲げられて、船体が完成したときに船縁は完全に平らで(水平で)なければなりません。型板の縁は舷側板内側の縁に合わせてあるので、この余分な部分が必要になってくるのです。船縁の角度は、船首から船尾まで連続して等間隔に置かれた九つの木型に合わせて付けられます。この角度は木型ごとに少しづつ変化します。私たちはその角度が端から端まで滑らかに変化していくようにカンナをかけました。
舷側板の下縁は直角のままです。下門さんは二つの舷側板を併せて一緒にして、この縁が滑らかになるように丁寧にカンナをかけました。ほんの少しでもここで失敗すると後からの仕事が大変になるんだよ。と彼は言いました。船大工は自分の勘に頼って仕事できなければならない事を彼が強調したのはこの時です。私のカメラを指差して、船大工は舟の形が分かるいい目を持っていなければならないと彼は言いました。「カメラじゃこれは分からないよ」「目を磨かなきゃ」
舷側板は二つの異なった厚さに削り込まれます。サシカザンの上の材は舷縁を形作る上端部を除いて一寸の厚さになるまで削り取られます、一方サシカザンの下端部は八分削られ、そこから徐々に削る量を減らして、厚さがそのまま維持される底部にいたります。電動工具がないころは、船縁、船首、船尾、そしてサシカザン周りの端部分全てに鑿をいれ、それから彫り込む深さまで手鋸で幾つも鋸目を入れて、最後に鋸目の間の材をチョウナで切り落としたものだと下門さんは言ってました。最終仕上げにはカンナを何種類も使いました(そのころサンドペーパーはありませんでした)。若い頃には、このような舷側板の対を作るのは一週間で出来たそうです。私たちの最終仕上げは全て電気サンダーを使ったのですが、下門さんは、刃のよくついたカンナで手仕上げしたものが一番美しいのだという事を話していました。
舷側板を刳り貫く時は最初に丸鋸で外端の線を切り込みました。船縁の下を切るときは丸鋸の刃を十度の傾きで一寸の切り込み深さに注意深く調整しました。三分の一下がった箇所ではサシカザンの上下端を切り込むために角度はおよそ三十度に付けられました。底の部分では深さを八分に減らしました。次に使った道具は下門さんがミズホルイキ(ミゾホリ機)と呼んでいるおよそ八分幅の溝切り刃を付けたおおきな丸鋸(電動溝切りカンナ)です。それは最大深さで削るように調整されていて、多くの材を削り取る事になるので道具を押すのは大変でした。下門さん、富雄さんと私とで一緒に作業しました。ミゾホリ機が乗る部分を作っておかねばならないので切り込みごとに少し材を残しながら、可能な限り多く削り取ることを試みました。
ミゾホリ機がもはや使えなくなってからは、私はカンナや丸鑿、普通の鑿などのハンドツールを使って作業しました。富雄さんはエアーの鑿を、下門さんはディスクグラインダーに六十番のサンディングディスクを使っていました。グラインダーを使うと木埃が雲のように舞い上がり、富雄さんと私とはしばしば舟から遠ざかるのを余儀なくされました。作業中ずっと、私は忙しく床を掃いたり、杉の削りくずやおがくずを袋に詰めたりしていました。実は伝統的な弟子の仕事として暗黙の了解のうちに、私は全ての掃除を行っていました。幾度か下門さんの奥さんが仕事場を訪れ床を掃こうとしましたが、私はその度ごとに彼女から帚を取り上げました。「いつも私の仕事だったのよ」と彼女は笑って言ってました。
舷側板が大まかにくりぬかれた時点で、下門さんは二尺ほど間を空けて、幾つもの並んだ小さな穴を舷側板にドリルで開けました。船縁のすぐ下とサシカザンのすぐ上の部分です。それから、錐の先端から八分のところまで残してテープを巻き付け、外側から錐を穴に入れ、内側から先端を手で触って深さを確かめながら、舷側板の内側からそれぞれの穴の位置に小さい窪みを削り取りました。窪みがちょうど八分の深さになったときにその底の部分に鉛筆で印をつけました。私たちの仕事はちょうど鉛筆の印が消えるまで表面をカンナ掛けして、サンディングする事になったのです。富雄さんと私は船縁とサシカザンの間の曲面を丸カンナで作りました。下門さんは窪んだ所をサンディング仕上げの一歩前までグラインダーで削っていました。サシカザンの上はカンナで三十度の角度に仕上げられました。平面の最終仕上はサンダーにサンディングパットを付けて行いました。舷側の下部からサシカザンまでと、舳先と艢の部分用に下門さんはスタイロフォームで曲面のサンディングパットを作りました。
舷側板作成の最後には、船縁の内側を斜めに削る事と、船首と船尾の舷側板が合わさる所を平らに加工する事があります。私たちは別の型板を船縁の上端に置き、船体完成後に船縁の内側の縁が垂直になるようにその部分の材をカンナで削り取りました。船縁の上端の幅(水平になる面です)が全てに亘って一定で、一寸八分になっているかを下門さんが確かめました。
舷側板の下端では全ての厚さを一寸半にするように、サシカザンの下から底端まで削り込みました。船尾から計ってくる場合は板の外の面から一寸半のところにこの端になる印をつけるのですが、一方船首から計るほうはこの一寸半は板の内側の面から測られて、船首より十尺下がった所で零になるように次第に減らされていきます。私たちは一寸半という一定の幅を維持しながら、この変化を両側から滑らかに合わせました。船首のところではこの縁と下の角にはとても注意深くカンナがかけられました。(図を参照)このようにして線を入れ替えると船首の形が巧くできる、と下門さんは言いました。曲げられたときに舷側板が合わさる船尾の部分もカンナで斜めに削り込まれました。
プロジェクトのこの時点では、下門さんの息子さんの富雄さんは、非常勤で私たちと一緒に働いているだけでした。もちろん下門さんは毎日舟の仕事にかかり、私は、たぶん半分の時間は直接舟に携わり、半分は仕事場で掃除したり、ビデオや写真を撮ったり、制作過程ををノートに書き留めたりしていました。電動工具を使う有利な条件にも関わらず、二枚の舷側板を刳り貫き仕上げるのには一週間かかりました。それは五十年以上前に下門さんが一人で手作業で行ったのと同じでした。
舷側板を刳り貫くのに要するこんな作業を全て考えてみれば、どうしても簡単な方法に心が向かいます。具体的には二つの板を合わせて舷側板を作り、船縁や棚板の桟やその他の物を八分厚の板に張り合わせて作ると言う方法です。私が糸満市のサバニレースに行ったときにもこのような方法で造られた舟を見ました。それらは「ナンヨウハギ」と呼ばれていました。文字通り「南洋で作られた」とか、もっとくだけた言い方では「洋風」と言った意味です。その名称は南方、ポリネシアや中国や初期の東アジアにやってきたヨーロッパ人の探検家達が沖縄の舟に与えた影響を反映しています。
私がこの種の作りが有利かも知れない点に付いて下門さんに考えを話してみたとき、彼は頭を振ってひと言だけ言いました。「だめ」と。後からナンヨウハギに付いて話をしようとしたときには、なんの会話もありませんでした。手を横に振って堅固に「あんなのはだめだよ」と言うのが常でした。でも後に下門さんが言った事には驚かされました。ちゃんと手入れしているならサバニは持ち主にとって一生ものなのだと。この長い寿命は分厚い刳り貫き材を使っているならではの事です。そして私は、伝統的なサバニを作るのに要する数週間の労働はその長い寿命を考えると充分に引き合う以上なのだということに気づいたのです。それだけではありません、安定性と言う要素も付け加わります。伝統的サバニの厚材の底部は重いキールの役目を果たすのです。
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彼はこのシートサポート(腰掛け梁受け)のことをサシカザンと呼んでいました、沖縄方言です。日本の伝統的な舟は西洋のようになスォート(腰掛け梁)を持っていません。多くはただ床板があるだけです。
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他の船大工達も同様に語っていました。日本の家具職人や宮大工達も同じく手カンナでの仕上げの優れている事を確信していました。カンナで滑らかに仕上げた後は腐りにくいと言っている人もいました。