舷側板を曲げる
富雄さんとわたしが舷側板内側の合わせ目にフゥンドゥを入れている間に、下門さんは注意深く位置を割り付けて、舷側板を曲げるのに使う金具用のアイボルトの穴を幾つか(四分の深さ)ドリルで開けていました。また私たちは船首と船尾の材に杉の薄板を接着剤と釘とで取り付けて木口を覆いました。このようにして用心しておけば材が急に乾燥して割れるのを防ぐ事が出来るのです。それから舷側板を支える大きな木挽き台を二つ、注意深く水準を取って据え付けました。この時点からは台にぶつかったりして、組み合わせたものを動かす事のないようにとても気を使わなければならなくなりました。
一番最初にサバニを作ったとき、舷側板を一晩で曲げようとして割れてしまった事を下門さんは語ってくれました。そのときから彼はこの工程には時間をかけるようになりました。仕事場の外に据え付けた軽油ボイラーでお湯を沸かし、すこしずつそのお湯で舷側板を浸して、力をかけて形を作っていくのですが、三日かかるだろうと彼は言いました。私たちは黄麻布を舷側板に覆い掛けて熱と湿気を保つようにしました。私は熱湯を舷側板の内側にも外側にもかけ、下門さんはチェーンとターンバックルで作られた複雑な仕掛けをゆっくりと締めていきました。下門さんの奥さんは、昔は木を燃やして火にかけた大きな鍋で湯を沸かす番をして、一度にバケツ一杯づつお湯を仕事場に運んだ事を楽しそうに語ってくれました。
私たちは舷側板の船首の端をクランプで止め、間の部分に下門さんが手鋸を通すための余地を少し空けました。私の教師達が皆そうだったように、舟の部材同士を合わせるのに鋸を使う手法を彼は使いました。「摺り合わせ」とか、「鋸通し」とか、様々に呼ばれているこの方法は和船制作の特徴のひとつです。二つの板を合わせてその間を鋸挽きすれば平でない所は切り取られます。鋸を通すごとに合わせ目は密になっていきます。下門さんはこの手法をスリノコと呼んでいました。
船首部で下門さんは注意深く接合部に鋸を通しました。目標とする所は速く鋸を引く事じゃなくって、力を入れる必要が起きない事だ。と下門さんは私に説明しました。実際、鋸をゆっくり進ませてとても密な切り口を木に残せば、合わせ目はより緊密になります。下門さんは刃を落とした古い鋸を幾つか楔のように使って隙間を空け、鋸を通しやすくしていました。
私の過去の教師達と比べて、下門さんの独特な点は仕事のペースへのこだわりです。この時点から下門さんは仕事中に私に指示を与えるときには、たいてい「ゆっくりどうぞ」という言葉を付け加えるようになりました。舷側板を曲げている時にも、手鋸で摺り合わせをしている時でも、入念に作業する事、どんな作業でも性急にしてはならない事、を繰り返し繰り返し強調しました。
また彼は、どうして瓜二つと同じサバニはないのかに付いて語り、それぞれのサバニが生きたものへと進化するさまを語りました。うつ俯せて作っていた船体を最終的にひっくり返すときの事を舟が「生まれる」と彼は遠回しに言いました。そのとき始めて私たちは舟の形を見て評価したり出来るのであって、それまでは船大工ですら、どれだけ巧く作れているか確信は持てないと言う事です。私はいままで作った他の舟との違いを理解し始めました。それらの舟は基本的には数々の部品からなり、それらを組合わせて作られます。大木から舟を削りだすのは全く異なった過程です。それは異なった思考法、異なった心構えを必要とすると言ってもいいと思います。
舷側板を曲げる工程に入ってから三日目には「つっぱり」と呼ばれている木の棒を取り付け始めました、下門さんがラベルを付けて仕事場の棚にしまってあったものです。これらはそれぞれが一定の長さに切ってあって、取り付けて舷側板を正確な幅に拡げます。寸法は下門さんの作った舷側板の図面に書いてあり、曲げが最終の形に近づいた時、下門さんは幾度も木の定規で確認していました。定規にはフックが付いていて、反対側の舷側板の外端にかけて船縁の位置での寸法を採っていました。(舷側板は上下逆に置いてあるので一番床に近いほうの端になります)私は、彼が舷側板の外側の寸法を採っているのに気づきました。キールの位置で舷側板の幅を測ったときは彼は定規を内側の端に当てて舷側板内側の寸法を見ていました。私はこの相違点に気がついたので彼に聞きました。彼は決定的な点を明らかにしてくれました。彼の言ってる船縁の幅は舷側板の外端から外端の幅で、底の幅は内端から内端の幅なのだと。
下門さんの図面のどこにもそんな事は書いてありません。彼の考えた事は問題があった時に船大工が普通にしているような事です。舷側板は底から船縁へと急な角度で広がっています。それなので船縁周りでは定規は簡単に縁に引っかかります。逆にキール側の縁では定規は引っかかりません。従って真横方向の簡単な測り方は内側の縁に定規を当てる事になるのです。もちろん、彼がこの計測方法にまごつくことはありません。定規を当てるか、引っ掛けるかは彼にとっては自動的に行われるような事なのです。
この話は、私にとってこの種の調査研究の必要性についての強い実例でした。
下門さんの図面は、私が今まで日本で会った他の船大工たちのものと比べても遥かに詳細に亘るものです、しかし、この些細であるが重要な事が明らかにしているのは、日本の伝統の中では、いかに図面に加え船大工の解釈が必要であるかと言うことです。図面を書くのは自分自身が使うためだけの物なのです。私が会ったほとんど全ての船大工は図面を描いても基本となる線や寸法は省きます。要となる角度や割合は記憶されているもので、記録されてはいません。もし誰かが下門さんの図面を彼の手引きなしに使おうと試みるなら、全く途方に暮れることでしょう。
船尾の部分で舷側板が合わさってくるに従って、私たちはそれが巧く揃っていない事に気づきました。そこでチェーンを一方の材の後端からもう一方の材の前部へと対角線にかけて、それらを揃え直す事が必要になりました。下門さんは船尾で合わさる事になる二つの面を斜めにカンナがけしました。継ぎ目に鋸を通して取り除く材の量を減らしたわけです。私たちはまず船尾の部分を木挽き台から降ろして低い角材の上に置き、舷側板同士をクランプで止めました。私の最初の失敗はここで起こりました。
多くのサバニは船尾の部分で舷側板の下の隅だけが接している、でも彼の舟では材は底部と一緒になって、ほぼ二尺ほども合わせ目を取ってあると下門さんは言いました。それは彼が工夫したもので、船体をより美しく強くするのだと述べていました。この合わせ目を私が鋸で挽いていた時、内側をチェックしそこなって、板の合間に沿って入れていくはずの鋸が片方の板に逸れてしまったのです。スリノコをしているとき下門さんは絶えずこのことをチェックしていました。かれがいかに慎重にしていたかを見ていたのですから、それでよく学習しておくべきでした。私が起こった事を彼に見せた時、明らかに彼は動転した様子でした。そして私から鋸を取って合わせ目を挽き直し間違いを修正しました。憂鬱な雰囲気が仕事場を包み、数時間は誰もひと言も話さないで作業を進めました。後にお茶の時間で座って休んでいるとき、彼は突然そのことを笑って、私に言いました。「小さな失敗はオーケー」また、船を見る目を養う必要に付いて再度強調しました。私のノートを指差して言ったのです。「ノートにしっかり書いておけばよく分かるだろうけど、それだけじゃ技は身に付けられないよ」彼が黙って許してくれた事に私は感謝しました。
次の日に私たちは舷側板を曲げ終えました。底になる部分の中心に水糸を通しました。そこで分かったのですが二枚の板は完全対称には曲がっていませんでした。測ってみたところは左舷側では一尺五寸四分、右舷側では一尺四寸九分ありました。これを修正するために、最初木の支えを一方の板に斜めに取り付けました。板を曲げるのに必要な力が舟全体を動かしかねないからです。下門さんはもっと多くの熱湯を片面に注いで曲がりを深くできないかと考えました。最後には滑車を床にボルトで固定してターンバックルとチェーンで板をあるべき場所に引っ張ってきました。
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下門さんは制作期間中ずっとこの事を気にかけていました。 仕事場は午前中には直射日光が入り、舟の船首にあたります。私たちは毛布で覆って日を避けていました。
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西洋では工房の床は普通は木です。このような場合船大工はよく木挽き台を床に固定します。日本では船大工は土の床に杭を差し込んでしっかり支えるようにします。下門さんの仕事場の床はコンクリート製でした
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割れたところはフゥンドゥで直したと彼は言いました。私が見たほとんど全てのサバニにも舷側板に少なくとも一つは割れがあり、この方法で修復されていました。
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舟を刳り貫くときに出た木屑でお湯を沸かしていたと彼女は言いました。2002年には私の東京の教師と一緒に直火で舷側板を曲げましたが、そのときにも不要になった木片を燃料にしました。
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他の船大工はこれをスリアワセとかトスノコとか呼んでいます。