底部を作る
この時点で私は十一日間この仕事をしていた事になります。
次に私たちはサバニの底に使う大きな材を台車に乗せて仕事場へと運び入れました。この大きな杉材は端から端まで十八尺半の長さ、一尺八寸の幅で七寸半の厚さがありました。舷側板の時と同じように木の芯になるほうが舟の外側に、根のほうの端が船首の方へ向けて置かれる事となります。元の木は直径二尺のもので、きっちり半分に挽かれていました。この材がサバニの底の中心部を形作る事になり、後二つの材が両側に接合される事になります。
仕事場にはワイヤーロープが差し渡してあり、チェーンブロックを使って、私たちは底材を吊り上げ、舷側板になる曲げた板の上へと降ろしました。下門さんが目印をつける方法はとても興味深いものでした。まず差し金を離して持ち、差し金の一方の柄の下の縁を舷側板の縁と見通します。それから上の縁と底材とを見通して合わさった所に印をつけるのです。その後、私たちが底部を舟から離して横の木挽き台の上に降ろします。一回転させた後、下門さんがこれらの印を繋いで線を引きます。そして電動カンナで材をおよそ四分ほど取り去り、その線のところまで削りこみます。次は私たちが材をひっくり返し、吊り上げ、舟の上へ戻します。そしてまたおなじ過程を繰り返すのです。
底部を合わせる途中で仕事を中断して、底材の内側を刳り貫く作業に入りました。内側は前に富雄さんの手でチェーンソウで荒削りされていました。前端部では船首近くになるに連れてV字型形へと形を変えて削られていて。そこにマストステップになる大きな材の塊が残してありました。
作業を始めたときに底材は一番薄い所で三寸の厚さがありました。最終の厚さは二寸二分半になるだろうと下門さんは言いました。私は削り取る材の多さにもう呆然としてしまい、どうして最初から均一の厚さの木に挽かないのか理解できませんでした。でも下門さんは、材を合わせた時のようにこれも少しづつ進めていく必要があると強調しました。それから、舷側板の時と同じように、底材の中心線に幾つもドリルで穴をあけ、2寸2分半の厚さまで窪みを削り取りました。底材の底から船縁の上まで垂直に測って前で1尺5寸5分、後ろで1尺4寸5分にすると言う事でした。この寸法が底部から削り取らねばならない材の量の目印となりました。
通常、私のノートには仕事日毎に数ページの文章が書かれてます。2009年十二月一日には私はこう書きました「十五日目、一日中底の作業」 底の中心になる材を測り合わせる過程では底材を二十回以上も舟の上に持ってきたり離したりする必要があった。そしてまだ終了していない。私はチェーンブロックを操作して、材をボートに置いたり、木挽き台の上に置いたりした。下門さんはチェーンゴロクと呼んでいた。下門さんはどれほどの材を取り除くかを測り、私が全てカンナをかけた。
昔はロープと滑車で吊って動かしたものだと彼は言っていた。そのあと、彼の妻が入ってきてそのロープと滑車は彼女が動かしていた事を説明してくれた。少しづつ、彼女がいかに重要な役割を果たしていたか分かってきた。子供が大きくなってからは、彼女は夫と共に仕事場で仕事をしていた。食べ物とお茶を毎日仕事場に持ってきてくれる中で、全体の過程を彼女がいかに理解しているかが明らかになった。
プロジェクトが終わって数ヶ月後、私がアメリカに帰ってから、下門さんに私を受け入れるように最終的に説いてくれたのは奥さんだったと日本の知人から聞きました。作業場の掃除をしたり、重い物を持ったり、チェーンブロックや大きな道具の操作をしたり、私は基本的には彼女の役割を引き継いでいたのです。
熟練を要する仕事のほとんどは下門さんが行いました。でもプロジェクトが経過するに連れてより多くの作業を私にも任せてくれるようになりました。特に彼が疲れた時にです。週七日働く事で私はもう疲れ果てかけていました。そして下門さんの持久力と心の強さには畏敬の念を感じていました。
仕事場の片側の壁に沿って積み重ねてある二艘の七メートルのサバニは、彼の手に依って一年あまりに渡って作られた物です。下門さんがこれらを作ったのはただただ材が手許にあったから…私は思うのですが…サバニを作る事こそが彼がずっと望んできた事の全てだからなのです。
丸五日間の作業で底を形作る中央の材を仕上げ、共に底を構成する二つの脇の部分に取りかかりました。この部分には底中央部に使ったのと同じ杉の丸太を四分の一に切った部分が使われました。最初のステップは中央部の材と当たる端の面を平らにする事でした。後からこの合わせを仕上げる事になります。下門さんは差し金でチェックしながら本当にゆっくりとそして丁寧に、電気カンナを使って、底を作るこの三つの部材をほとんど完全に合わせました。
私たちはスリングが取り付けられた二つのかすがいを脇の部材に打ち込んでチェーンブロックで引き上げられるようにしました。両端だけが舷側板に合えばいいだけの中央の材と異なり、この脇材との合わせ目は舷側板に沿って長い弧を描くカーブとなっています。最初の日は一番目の脇材を舟に合わせるのに10回も揚げたり降ろしたりしました。脇材を合わせるとき下門さんは舟の下に入り外側にも内側にも合わせ目を罫書きしました。
底を調整するごとに下門さんは五分ほども材を取り除いていました。これは電気カンナでの作業としては相当な量です。材を動かすようにとの彼の指示を待ちながらわたしはずっと考えていました。必要な形を注意深く測って一度に全てを近い状態に切るという事も出来たのにと。内側と外側をチェックして底を削り整え舟の上に戻すのですが、合わせ目が最終に近づくにつれて、たしかに先端部にあった隙間は合っていると思えば、こんどは船尾の部分に別の隙間が出来ていたりするのです。それは行ったり来たりする作業でその度ごとにゆっくり少しずつ隙間が合っていくのです。ビベルゲージ(ジユウガネー角度定規)を使い、合わせ目を見てカンナをかける場所に印をつけます。やがて、隙間は狭くなり、下門さんは合わせ目に彼の古い鋸の歯を入れて隙間の感じを見るようになりました。
あるとき、下門さんは船の下に入っているときに私に合わせ目の話をしました。「どこが合っていて、どこが空いているか、舷側板の角は揃っているかよく見て覚えておかねばならないね」そして驚いた事に「なぜこんなに遅いのか不思議でしょう」と付け加えました。それは彼が手を休めて詳しい説明を私にする極めて稀な機会でした。材を切るときに材木屋に行って指図できなかったので、着いてみたら材が大きすぎた事を彼は指摘しました。卒中を患ったせいで、もうチェーンソウは使えないので小さく切る事は出来なかったのです。昔は底材を船本体にほんの三、四回合わせただけで、チェーンソウで削り合わせ最終仕上げへと持っていくことができた。と彼は言いました。また、今まで作ったサバニの多くは単一の材で底を作ったのでより簡単だったとも言っていました。
底材を合わせる工程では私は我慢強くなかったかも知れませんが、一方で、私は下門さんが伝統的なサバニに付いて語った事を思い出しました。きちんと手入れされるならサバニは持ち主の一生ものだと言う事です。実際に糸満でのレースでは四十年以上は経っているサバニが幾艘も出ています。舟を作るのに余分に一週間かけるのは完成したものの長い寿命に比べれば取るにたらない事です。また、下門さんのゆっくりと入念な底の合わせ方は、実際、最初にサバニを作るものにとって完璧な方法でありましょう。繰り返し試みる事は技術を伸ばしていく素晴らしい訓練となります。そして下門さんの言葉を引けば「目を養う」事の訓練になるのです
同じ日、近所の知り合いが、東京からの年配の民族学者を仕事場に連れてきました。下門さんに会って仕事を見るためです。下門さんは学校の生徒でも昔の顧客でも、親戚でも、全く知らない人でも来訪者が好きです。昼食のためきっちり正確にお昼に休みを取るのですが、朝と昼の休みは一定していません。来訪者がやってくるとほとんどの場合、いつも休み時間は早まります。民族学者はノロについての下門さんの話に特に関心があるようでした。沖縄の信仰生活を特色づける女性のシャーマンの事です。私たちの舟は完成した際には近所に住んでいる九十四歳の高齢の女性によって清められる事になっていると下門さんは語っていました。彼女はユタで、それは占い師と訳されていますがノロの下位に位置するものです。神道での進水式のように米と塩と酒とで彼女は舟を清める事となります。
来訪者はその話に惹き付けられて、下門さんの話を熱心に聞いていました。地元の信仰の話は続きます。富雄さんが説明するには港の神道風の鳥居の後ろには神社ではなく、ユタキもしくは神聖な物があるのです。それは小さな岩で、おそらくはそれもまた神聖な場所と考えられている島のグスク山を象徴しています。私は乱雑に伸びた白髪が目立つの民俗学者をじっと見ていたのですが、どうして彼の容貌がこうも気にかかるのかと思っていました。下門さんの従兄弟もいつものように仕事場にやってきていたのですが、来訪者を身振りで示しながら私にささやいたのです「彼は小沢征爾の兄弟だよ」と
下門さんが三つの底材同士と舷側板との合わせにようやく満足したあとで、私たちは真ん中の底材を横に向けて木挽き台の上に置き、その上に脇の材を重ねました。下門さん、富雄さん、私の全員がスリノコで二つの平らな合わせ目を仕上げました。この仕事には私たちは真新しい手鋸を使いました、鋸を直角にするか、すこし傾けて使うのが一番いいと富男さんは私に説明しました。持ち手が上下に振らつかないで、しっかりと合わせ目に水平に保持する事が極めて重要です。そうしないと鋸は合わせ目からはみ出て木を切り込みかけるので、たえずチェックすることが大切です。富雄さんはこの工程を、切ると言うより撫ぜるのだと表現しました。(かれはそれをガラスのレンズを作る事に例えていました)抵抗が少ししか感じられない所でもゆっくり進む必要があるのです。おがくずが出ている限りは鋸は切れているのだと彼は言ってました。一つ目の合わせ目は両端でほとんど接していました。この部分を富雄さんは四回鋸を通して合わせました。そして中央部ではゆっくりと三回軽く通しました。全て完了するのには、それぞれの合わせ目につき約一時間ほどかかりました。
実は、私の他の教師達と比べれば、下門さんがこのスリノコ技法に頼る事は遥かに少ないのです(たらい舟ではスリノコは全く使いませんでしたが)八十艘ものサバニを作った後で日本式の木造漁船を作り始めたのですが、下門さんはこの種の造船法をかなり下に見ていました。特に和船大工達が板を合わせるのにこの技法に頼っているのは欠点だと言っていました。「合わせ目を挽きすぎるのでどうしても縁が丸くなる」彼が和船を作った時は棚板をカンナできっちり合わせておいて、スリノコをほんの一回通すだけだったと言っていました。これもまた、いかに彼が伝統からは離れた所にいたかという例です。昔は下門さんは他の船大工達と同様な技法を使ったかも知れません。でも彼はためらわずに彼独自の手法に変更したのです。
私たちは底になる三つの部材を一緒に船体の上に置き、クランプで留めました。舷側板との適合具合に未だ満足していない下門さんは、これを解体して、一つの脇材に二回最終の合わせ作業を行いました。このときは、カンナで、ほんのすこしの材を取り除き、そして最終的に、底材は接着準備完了であると宣言しました。この時点で底は意図的にサイズを大きくしてあり、おおよそ五分ほど舷側板より広くなっていました。材の大きさを考えたら、カンナで合わせていく間にたぶんすこしひねりが出ると、下門さんは言いました。私たちの削り除けた材の量と、それが材の応力を変化させた事を考えるともっともな事です。私たちの最終調整は合わせるために脇材を動かしてから十六回にわたりました。
この三つの底材は舟の上に置いたままで接着されました。底材が舷側板にくっつくのを防ぐために間にビニールシートが挟み込まれ、全ての接着面に手早く接着剤が塗り拡げられました。八つの大きなクランプが取り付けられ、大きなかすがいが底材の内側と外側に打たれて一緒に底材を締め付けました。下門さんは促進剤(彼は硬化剤と呼んでいました)を接着剤に混ぜていて、それは二十分ほどで固まり始めました。
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日本語ではチェーンフォールはチェーンブロックと呼ばれています。下門さんの呼び名は標準語の地方発音を反映したものです。
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2000年に私は佐渡を訪れました。私の先生が亡くなって、彼が作りかけていたたらい舟を完成させるためにです。毎日彼の奥さんは仕事場にやって来て、私の仕事を見てアドバイスをくれました。彼女はずっと夫のかたわらで仕事をしていたのです。舟がどう作られているかについて、本当によく知っているのは明らかでした。職人の仕事に置ける妻の役割は、私自身も含めて研究者からずっと見落とされていました。
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小沢征爾は有名な指揮者で、元ボストン・シンフォニーの音楽監督です。彼の兄弟は日本でよく知られた民族学者です
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彼の技法はカンナだけで舷側板を合わせる西洋の船大工により近いとも言えます