はじめに
2009年の十一月から2010年の一月にかけて、伊江島の下門龍仁さんと息子の富夫さんと共に、私は沖縄の伝統的な漁船サバニを制作しました。彼らは昔からの手法でサバニを造る、まさしく最後の職人たちです。私の目的はその過程を記録することでした。
私が日本の船大工と共に仕事をして、その技を記録する事はこれが五回目です。最初の弟子入りは1996年の事でした。その時は新潟佐渡島のたらい舟を作る最後の船大工と共に仕事をすることが出来ました。私は彼と一緒に一艘のたらい舟を造り、その後数年間の間にもう四艘を作る事になりました。2000年には千葉浦安の船大工に招かれ、ベカ舟と呼ばれる伝統的な東京湾の海苔舟を造ることができました。2002年から2003年の間には一年間日本に住んで三艘の舟を造りました。墨田区の船大工と共に二艘、青森県の船大工と共に一艘です。
私の最初の四人の先生は弟子を取った事が一度もありませんでした。また私は日本への十二回の旅行の間に本州のすべてを廻り、五十人以上の船大工と会って話を聞いたのですが、これらの人々すべて合わせても弟子はおよそ五、六名ほどしかいませんでした。私が知っている船大工の多くは現在、七十代、八十代、そして九十代です。それは日本の伝統工芸を巡る多くの悲しい話を体現しているかのようです。作り手はみな年を取り、親方と弟子とによって何世代も育まれてきた伝統はもう見る影もなくなってしまったのです。
造舟の技法は秘密主義で満たされています。私が会った人々の多くが、自分の記憶だけを頼りにして文書記録や図面など全く無しに舟を造っていました。たしかにそれは秘密を保護しましたが、秘密を伝える相手もいないまま、研究者による記録もほとんどないままに、大半の知識は失われる危機に曝される事になってしまいました。
一緒に舟を作り、技法に付いての話を聞き、実測図を作成して、船大工それぞれの方法をできるだけ多く記録することが、私の研究の目的となりました。
このプロジェクトの始まりは2002年、東京で働いていたある週末に、妻と私が新潟県に旅行したときに遡ります。地元の研究者と何人かの友人たちが阿賀野川に私たちを連れて行って、元船頭と一人の船大工とに引き会わせてくれました。その地方の最も一般的な舟はサンパ舟、長くて、細長い川船でした。私たちが会った船大工は元は地元の大工の人でした。1980年代に彼と幾人かの人達が、もう阿賀野川には船大工は一人しか残っていない事に気づき、その船大工が最後の一艘を造るのを手伝いました。そして、船大工が亡くなった後に、大工だった彼が何とか舟を造り続けてきたと言うわけなのです。
サンパ舟は私にとって一つの啓示でした。サンパ舟の舟板はほとんどの箇所がチギリと呼ばれる木で出来たくさびで固定されてます。(阿賀野地方ではこれはチッキンと呼ばれます)。この留め具は西洋の家具職人にもダブテイル・キーとかバタフライ・キーと言った名前でよく知られています。しかしながら舟作りには決して使われた事がありません。私はその使い方に惹かれ、その技法を学ぼうと決心したのです。
その後、私は更なる調査のために2003年に日本中を八千キロメートル旅行しました、その時も山形の最上川で造られた舟にこの技法が用いられているのを見つけました。石川県の能登島ではこの方法で舟を作っている船大工に出会いました。また、東北各地の至る所では様々の種類の漁船が鉄釘と共にこの留め具を使用していました。非常に厚い材の船底部材を基礎にした秋田県のハタハタ舟のような舟や、青森と北海道のムダマハギ舟の類です。 そして、私はしばらくしてから、沖縄の船大工達はこの留め具を使ってサバニと呼ばれている沖縄を象徴する漁船を作っている事を知りました。沖縄ではこの留め具は「フゥンドゥ」と言う謎めいた名前で呼ばれていました。
2003年の終わりにアメリカへ帰ったあと、私は阿賀野川で出会った船大工と共に仕事をするために基金を調達しようと試みたのですが、うまく行きませんでした。その後、私は船大工から、彼が年を取ってもう仕事が出来ないことを告げられました。そういう事情で、私の関心は沖縄へと向かう事になりました。サバニを作る船大工を見つけて、彼に学ぶことが出来ればと思ったのです。
サバニは伝統的に沿岸漁業で使用されていた舟ですが、いまや沖縄の人々にとっては沖縄を象徴するアイコンにもなっています。そして過去十年の間にはセイルボーダーやサーファー、ヨット乗り達にレース艇として再発見されるという栄誉も得てきました。まぎれもなく、これは伝統的漁船がレジャーボートへ移り変わった日本で初めての例でしょう。私はやがて、これらのサバニセイラー達と連絡がつくようになり、彼らから舟大工の情報を教えてもらえるようになりました。大多数の意見では、伝統的なサバニを作れる最後の職人は三名現存するということでした。
次の二年間に、私は、シアトル(ワシントン州)のセンター・フォア・ウドゥンボートと、エドウィン・マンク財団から基金を得ました。そしてニューヨーク市のアジア文化センターからもさらなる基金を受けました。この頃までには、私は現存する三人の船大工と連絡を取っていました。そのとき下門龍仁さんに初めて手紙を出したのです。彼からは、三年前に卒中を患いサバニを作るのにも半年以上はかかる旨の断りの返事が返ってきました。その後、私は船の科学館を運営する日本財団から基金を得ることができました。船の科学館の学芸員は。もう一度考慮してもらえないかと下門さんに頼み込んでくれました。最終的に彼は承諾してくれて、八メートルのサバニをつくる事、そしてその建造に私を参加させる事を科学館から依頼することになったのです。
2009年の十一月、私は東京に着き、沖縄に発つ前に科学館の担当者達と会いました。学芸員の一番の気がかりは、はたして下門さんと私とが、私の二ヶ月の沖縄滞在中にサバニを完成させられるかと言う事でした。詳細に亘る話はありませんでしたが、八十一歳の下門さんにとって、健康を考えれば真冬の仕事は困難だと言う事を彼は気にかけていました。私はベストを尽くす事、そして下門さんが作業に私を加えてくれることで、仕事が速く進む事を望む事などを話しました。しかしながら、もし何かうまくいかない時は、私の仕事は下門さんの仕事場にある二つの七メートルのサバニの寸法を採るだけになるだろう、という事を私達は確認しました。学芸員がフェリー着き場から下門さんの仕事場へ行く大雑把な地図を私に描いてくれてミーティングは終わりました。
東京から那覇へ、沖縄の首府へと私は飛行機で着き、その夕に車で本島を北へ、北海岸最大の都市、名護市へとやってきました。伊江島の小さな島影はすぐそこにも見えました。フェリーでは港からたった三十分なのですが、一日四便しかなく、その日の最終便を逃してしまったので、その夜は名護のビジネスホテルに泊まる事になりました。そして次の朝、私は伊江島行始発ののフェリーに乗っていました。長さ四マイル、幅三マイルほどの楕円形の島には、三角錐の山が街の中心部の後に高く聳え立つていました。フェリーから降りて地図に目をやり、右へと道を取りました。メインロードに沿って進み、道が内陸側へ曲がっている所で小さな丘へと登る横道に入る、との指示どおりに歩いて行き、そこで私がふと見上げると、百メートルほど向こうに小柄でがっしりとした女の人が丘の頂の下で、頭上に腕を振っているのが見えました。私は足早になって彼女のほうへ向かいました。すると、彼女は私が向かっているのを見るや向きを変えて、丘を登り見えなくなってしまいました。
しばらくしてから、私はコンクリート製の仕事場の角へとたどり着きました。下門さんと彼の息子、富雄さんが座って私を待っていました。下門さんの奥さんは私に手を振ってくれていた婦人でした。彼女は折りたたみ式の簡素なテーブルに軽食を入れたバスケットを置く所でした。仕事場には巨大な木の板が二つ、幅広の木挽き台に拡げてあり、すぐ外には杉の丸太や、半分割りや、板材や端材が四フィートほどの高さに積み上げられていました。コンクリート製の大きな二階建ての下門さんの家が仕事場の隣に立っていました。小さな機械小屋が仕事場の片側に寄せて立っていました。私は歩み出て、お辞儀をして、そして自己紹介をしました。私はすぐに彼の脚が相当悪い事に気づきました。彼は杖をついて立っていました。握手をしようと歩み寄ったとき、片方の脚が完全に動かなくなっているのが分かりました。彼は私の所までやって来て、丈夫なほうの手で握手できるようにと杖を下に落としました。彼のもう一方の手は身体と反対側にすこしねじれていて、指は半分拳を開いたように曲がっていました。
滞在中に舟を完成出来ないかも知れないという思いはずっと、私にとって大きなストレスとなっていました。下門さんに会って彼の困難さを実感した事は私の心を沈ませました。でも、その時、私の手を握りながら、本当に明るい笑顔で、どれほどこのサバニを作る事を待ち望んでいたのかと彼は私に語ってくれました。彼の意気込みに助けられて私は気分が良くなり、ともかく彼が私を信頼して仕事をさせてくれるなら、期限どおりにプロジェクトを終えることができるかもしれないと思い描き始めました。でも息子さんは遮るように私に説明しました。三年前に彼の父は重い卒中にかかった事、そのために仕事に制約が出来た事等などです。その上に、冬がやってこようとしていました。寒い時は腕が動かなくなって痛くなるのです。でも、それにもかかわらず、下門さんは次の日から昔からのスケジュールで仕事をするのだと言いました、それは週に七日、新年の五日間のみ中断するというものです。最盛期には手工具だけで四十日でサバニを一艘作ったものだと彼は言ってました。
ところで、はじめに述べておくと、仕事場における私の役割は全く弟子になりきっているのでは無く、ただ観察者であるというのでもありません。私は出来る限り手助けになろうと努めましたし、下門さんはすぐに私を信頼してくれて、熟練を要する難しい作業を私に任せてくれました。フゥンドゥを取り付けるような、ある種の技法を私が習得する必要がある事を彼は分かっていました。とは言うものの、彼と彼の息子さんとが最重要な作業を手放すことはありませんでした。伝統的に日本では先生に直接教えてもらうわけではなく、見習いには「見て習う」ことが求められます。他の私の先生達と同じように、仕事中に邪魔が入るのは下門さんは望まないのだろうと思われたので、休憩を取るまで私は質問を控えようと努めました。
仕事をしていて最も難しかったことは、下門さんが何の気なしに行った事を説明してもらおうと試みたことです。私が、何かについて、どうしてそういう方法で行うのかを尋ねたとき、何度か彼は「そうしているからだよ」と答えるのでした それは彼が決して私の質問を無視しているのではなくて、あまりにも彼には自明でそれ以上説明などしようもない何かを私が聞いたと言う事なのです。たいていの場合は 私が我慢していれば理由は後に明確になることでした。でも、いくつかの質問に対しては完全に回答が得られたと言うわけではありません。たとえば「原寸の型を作っていなかった時は、どの様にして舷側板の形を正確に描いたのか。」などと言うような事がそれです。下門さんは彼の木型と図面のすべてを気前よくコピーさせてくださいました、だからといって彼がすべてを私に語る義務があったわけではないのですから。
サバニのデザインや構造について詳しく述べている二つの出版物があります。その一つが船足の速い船としてのサバニの評判に引きつけられた横山晃さんの本です。彼の著書「ヨットデザイン」の補遺で、横山さんは沖縄の舟について言及し、サバニの図面を幾つか収録しました。彼はサバニを測定して、ある秘密を発見しました。側面図で見られるボート底部のほんの少しのくぼみです。そのサバニの底部高は中央部では、終端部より十五ミリ高くなっていたのです。横山さんは、これがサバニの高性能に貢献するかもしれないと理論づけました。また彼は続けて、東京地域のいくつかの伝統的な種類の舟、ニタリ舟、打瀬舟、チョキ舟などがこの珍しい船形で造られていて、沖縄から来た船員達がこの考えを関東圏にもたらしたかもしれないと書きました。
二番目の本は、白石克彦さんの著書「沖縄の舟—サバニ」です。それは彼が1979年に会った沖縄の船大工の手に依る伝統的なサバニの建造を記録しています。白石さんの本には美しいイラストや図面が多く見られます。そして、彼が説明する方法は概ね下門さんの方法と合致しています。ただ、舷側板を曲げる部分の記述は著しく異なっています。彼は船大工が両端で板を接続してから、中央でゆっくり板を広げていくと説明します。これは下門さんの方法とはかなり異なっていました、下門さんはまず船首を合わせておいて、次に船尾からゆっくり板を曲げていくと言う方法を用いています。サバニ制作について詳しい数人の人々に私は聞いたのですが、白石さんの書いたような方法で作る船大工はいないだろうと皆思っているようでした。なぜそんなに明白な違いがあるのかは説明困難です。
サバニの制作方法に関して、これら様々の異なった見方があると言う事からは、そこにある伝統工芸特有の多様性が見えてきます。この事は伝統を担う職人達についてもいつも言われる事ですが、数が減少していくにつれて、日本の舟大工達はますます孤立していくようになっています。沖縄で残っている三人のサバニ大工はまったく離れた場所に住んでいます。三つの異なった島(石垣島、本島の糸満市、および伊江島)に住み、お互いに連絡は取り合っていませんし、一度も会ったことさえ無いかも知れません。互いの舟を見た事のみが唯一の接点だと言う事も十二分にありそうです。要するにこういう事なのです。それぞれは全く孤立して別々に制作を行っているのに、それらは同じ一つの伝統を担っているのだと本当に言っていいのでしょうか?
私がこの孤立について最初に出会ったのは言葉です。前に弟子に入った時から、舟の部品、道具や技法を表すのに、先生達はそれぞれ独特の、その地方だけの用語を使うものだと言う事が分かっていました。日本の地方に行くと、そこは様々の方言のパッチワークです。それらは東北弁とか関西弁とか呼ばれていて、いくつかはその習得し難さで知られています。でも、多くの方言では標準的な日本語との差は発音の違いや、幾つかの異なった言い回しや単語があると言う程度でした。沖縄方言は難しいよ。と私は警告されていました。でも、そんなものじゃなくって、下門さんは「今使った言葉は沖縄方言ですか?」と聞いたときに「沖縄方言じゃないよ、沖縄語だよ」と言うのでした。
方言は一般的には地元言葉と同じものだと定義されています。でも実際のところ沖縄方言は全く異なった言語です。二人の年配の島民が会話しているのを聞けば、それは中国語かタイ語のようにも聞こえます。日本語の柔らかなトーンはありません。下門さんとご家族は私のために標準語を話してくれました。でもサバニに関する下門さんの用語は全て方言です。そして彼が説明してくれるには、全ての島ごとにそれぞれの方言があり、島ごとにそれぞれ異なったサバニ用語があるという事なのです。
下門さんは若いとき、いかに注意深く彼の島の舟を研究したかについて話してくれました。名護市や糸満市から持ってこられた舟です。そのときに見た舟が仕事を覚える基となりました。その後、数多くのサバニを作り、彼自身のデザインを完成させ、伊江島だけでなく名護も含めた周りの地方の漁師たちの唯一のサバニ大工となるにつれて、これらの外からの影響は色あせていきました。彼の舟を使う漁師たちからの要望が最もデザインに影響を与えました。
工芸の断片化と残存わずかな制作者の孤立は、それぞれの職人はその個人的な経験に基づいた範囲内での伝統に依って制作するという事を意味します。このことは今日行われているサバニのレースにも見てとることが出来ます。そこでは、最も経験豊富なセイラーたちは、どの船大工がどの舟を造ったかを容易に特定できます。沖縄に残っている船大工すべての広範囲に渡る調査をおこなえば、その技法やデザインに著しい違いを見る事が期待できると私は思うのです。
サバニは沖縄の象徴ともなる漁船です。それはもっともなことです。 何世代にも渡って漁師と船大工は形を洗練し、私が今までに見たなかで最もユニークな、彫刻作品のような舟を作り上げてきました。サバニは日本の他の舟とは非常に異なっていて、歴史的発展過程では日本よりポリネシアの影響を受けています。沖縄は島国の中の群島と言う位置にもあって比較的孤立していました。それが沖縄の人々にその得られる材料、技術、漁法、地域の海の環境下で理想的であった舟を独自に開発させることになったのです。
サバニの独特な形は、珍しい三角形のトランサムと、魚に似ていると言われる高く広がった船尾からなっています。日本の伝統的な舟の多くがそうであるように、沖縄の船大工は図面を全く使用しないで、親方から徒弟へと記憶を頼りに伝えられた寸法に依っていました。今沖縄で伝統のサバニを作れるのは、もう残っている三人の高齢の船大工だけだと思われています。少なくともそのうち二人は自分で作り方を覚えました。彼らの父親は船大工ではありませんでしたし、年上の船大工に師事したと言う事もありませんでした。そのかわり彼らは漁師として働き、サバニの文化にどっぷり浸かる中でこれらの舟への親密な理解を育んでいったのです。
サバニは日本の外でもよく知られた種類の舟ですが、その歴史やデザイン、制作法についての正式な研究はあまり行われて来ませんでした。おそらくは二十か三十の歴史的なサバニがほんの簡単な説明が付けられただけで、博物館や自治体のコレクションにに存在しているだけでしょう。博物館の収集品におけるサバニのほとんどすべてが第二次世界大戦の後に作られたものです。また多くはある程度の修理改造がなされていますが、船歴四十年以上のサバニがまだ現役でレースに出ています。糸満市や他の操業中の漁港でも、船内エンジンを取り付けたサバニの大きい漁船をまだ見る事が出来ます。これらの多くがグラスファイバー(FRP)でコーティングされています。
1879年の日本による併合まで、かつて沖縄諸島は琉球王国でした。今日でも沖縄の人達は彼らの文化は日本本土とは異なっていると考えています。下門さんに会った日に、私は漢字で「和船」と刺繍されたカスタムメイドの帽子を幾つか持ってきていました。私の友人や、今回連絡に携わってくれた人たちへのプレゼントにしようと思って持ってきたのです。沖縄に着くまではプレゼントを渡した人は皆喜んでくれました。沖縄に到着して、私は下門さんと彼の息子にもその帽子をプレゼントしました。その結果、私は下門さんからサバニと、日本と沖縄との文化の違いに関する最初のレッスンを引き出す事になったのです。
「サバニは和船じゃないよ。サバニはサバニだよ。」
下門さんと息子さんは私のプレゼントを受け取りましたが、私は二度とその帽子を見る事はありませんでした。
最初の日、下門さんは私にサバニと日本の和船の違いについて一連の話をしました。それぞれの話はサバニはどんな和船より優れていると言う彼の信念を強調したものです。彼がまず最初に言った事は「サバニには角がない」「和船は角ばかりある」と言う事です 。サバニの独特の形は丸木舟にその起源を持っています。子供のときに、丸木舟のサバニがまだ使用されていたのを下門さんは覚えているそうです。でも、彼は現在のサバニに比べれば、これら先駆者達を高く評価しませんでした。それらは弱く、そんなに長持ちするわけではないと彼は言います。丸木舟は一本の木から彫られているので、製法上、舟の両端に木口を露出します。木口はずっと多くの湿気を吸収するので腐敗を進行させやすいのです。ともあれ、私が沖縄県立博物館で見た丸木舟のサバニは多くの丸太型の丸木舟とは遥かに異なり、サバニ特有の造形的な形をしていました。
もう一つの丸木舟の大きな不利な点は資源の浪費です。丸太からボートやカヌーを彫り作るということは、舟自体と同じ位、もしくはそれ以上の量の木材を掘り出すと言う事です。丸木舟はまた大きな樹を必要とし、森林の減少を進めてしまいます。材料が欠乏してくれば異なった工法を開発するしかありません。最も初期のサバニは地元の木を使って造られていましたが、第二次世界大戦後、沖縄の船大工は九州からの杉に頼らねばならないようになりました。
サバニにはオリジナルの丸木舟からの進化が見られます。それは大きい材木を継ぎ合わせ、堀削り、組み合わせると言う複合的な制作方法です。サバニは本当の丸木舟ではありませんが、また、本当の板作りの舟でもありません。一番いい用語はセミダグアウト(準丸木舟)と言う表現でしょう。板作りの舟への進化が下門さんが造っているような半丸木作りより優れていると一般的には思われているかもしれませんが、彼の見方は異なります。一緒に仕事している間ずっと、彼は伝統的なサバニを作るのに要求される職人技のレベルの高さについて語っていました。特に曲線を基調とする構造や、舟の複雑な形に関することです。
下門さんは生涯ずっと伊江島に住んで来ました。彼の言うところには、彼の家族は百二十年前に伊江島に来ました。彼の父親は漁師で大きいサバニを持っていました、約七メートルのサバニです。少年のときに彼もまた漁を始めました。一人で小さな舟に乗り右手で舵を取る櫂を握り、左手で帆綱を持ち、歯で釣り糸をくわえて曵いていたことを覚えています。彼の若い頃には伊江島では全く舟は作られていませんでした。漁師は名護と糸満の大工から舟を買っていました。それでも、縁が直線ではない幾分か曲がったサバニ用の独特の帆の形は彼の父親が編み出したものだそうです。
小さいサバニで浜から浜を行ったり来たりしてセイリングする以上に好きな事はないと下門さんは幾度も私に言いましたが、同時に、漁師の仕事は辛く厳しいものだと言う事をも打ち明けてくれました。彼の若かった頃の漁法の多くでは、海中にもぐって網を曵いたり魚を追い込んだりしなければなりませんでした。サバニは幅の狭い舟なのですぐ転覆します。実際サバニ乗りは舟を起こす専門家です。その腕は伊江島のハーリー舟競争でも見ることができます。乗り手はゴールまでに必ず舟を転覆させ、起こして水を掻い出さねばなりません。 ハーリー舟はサバニに似た舟ですが、漕ぎ手を揃えてチーム同士で競うために作られています。
第二次世界大戦の後に下門さんはサバニを専門的に造ると心に決めました。彼には漁師として過した日々からの舟に関する詳細な知識がありましたが、その上に本島の造船所を訪れ、そこで舟が造られるところをじっくり見てきました。 「一度見たら、何か分かるし、忘れることはないよ」 そう彼は私に言います。彼は家のすぐ側に仕事場を作り、最初は丸木の柱で支えられた屋根の下で仕事を始めました。
下門さんは生涯で約百艘ものサバニを作ったと言うことです、最初の二十艘は櫂と帆だけの動力の付いてない舟でした。一人の漁師用の五メートルほどの舟から、最大六名ほどで帆走させる七、八メートルのものまで、様々なサイズのものを作りました。第二次世界大戦のすぐ後に、巨大な米軍空軍基地が伊江島に出来たせいで、様々な種類の小さいガソリンエンジンが使えるようになりました。これらは、一般には、三馬力から四馬力のポンプと発電機を動かした一気筒エンジンでした。やがて下門さんはサバニにこれらのエンジンを取り付け始めました。この辺りでは一番乗りだったよと彼は言っていました。
沖縄の人は廃品となった米軍の軍事用機材から全く新しい種類の舟を造り出しさえしました。タンコブネ(タンクボート)がそれです。アメリカ空軍の使用済み燃料タンク、それは翼の下に付けられて、空になった時は落とせるようになっている燃料タンクですが、沖縄戦中にはそれが幾千も雨のように振ってきたのです。島民はそれを水のタンクとして使い、それから隔壁を取払って舟を作りました。伊江島ではタンコブネは内海のタコ漁に使われていました。私が糸満市の博物館で見たタンコブネは木の船縁と内付けのエンジンを備えていました。私が泊まっていた旅館でこの船の話をしていたら、そのとき訪れていた村の役場の人から、彼の友人の大城さんに会って彼のタンコブネを見るように強く薦められました。大城さんは九十三歳で、ほんの二年前まで舟を使って漁をしていたそうです。
ガソリンパワーの到来はサバニに変化をもたらせました。基本的な制作方法は変わりませんでしたが、舟は大きく幅広くなりました。後には大きな動力サバニ船で隔壁を持ったり、エンジンを収納する小部屋を持ったりするものが現れました。エンジン走行時の安定のために後部の吃水線に水平板を取り付けるサバニもありました。
1960年代になって、日本風の漁船がよく見かけられるようになり、伊江島のような田舎の島にまで入ってくるようになって、サバニの漁船としての最後の日々が始まりました。それらは下門さんがワセンと呼んでいる、沖縄のものではない、日本固有の板作り様式の船です。下門さんはそれらを最初木で作り始め、それからファイバーグラスで作りました。若い日に本島に渡ってサバニ大工達を観察した旅のように、下門さんは九州に旅行してファイバーグラスの船の製作所を訪ねました。一度訪問した後、彼は家に戻り自分で制作を始めました。
私との話の中で、これら外来の舟についてどう思っているかを彼は何度か語っています。「底に枠を置いて その周りに板を曲げるだけ、 簡単だよ。 グラスファイバーだったら材料を広げるだけ。それで船が出来ちゃう」 下門さんは熱烈な伝統主義者です。サバニはより難しく、はるかにやりがいがある種類の船なんだ、と言う事を幾度も幾度も私に思い起こさせずにはいられないのです。
サバニレースを楽しむ人口の増大は沖縄の最後のサバニ大工達に伝統的なサバニを再び作る機会をもたらしました。下門さんはレーシングチームのために幾つかサバニを造り、残っていた材料でさらに幾艇かを作りました。私たちが一緒に働いていた時には仕事場には七メートルのサバニが二艇と六メートルのサバニが一艇、そしてレストランでディスプレイに使われていたという四メートルのとても小さなサバニがありました。私たちの船の残った材料で七メートルのサバニをもう一艇作りたいと彼は言ってました。
下門さんはずっと伊江島の同じ場所に住んできました。でも住む家は三度変わっています。子供の時の木組みで藁葺きの家は戦争で壊されました。戦後の家は瓦屋根の簡素なコンクリートブロックのもので、それがやがて今のコンクリート製のものに取って代わりました。仕事場はコンクリートブロック製で、土間で傾斜屋根だった以前の仕事場を作り替えたものでした。私たちが仕事をしていたコンクリートの床はグラスファイバーの船を作っていた頃の名残でエポキシが固まった跡だらけになっていました。仕事場の片側は大きく開かれていて、ドアはありませんでした。気候は厳しくないので必要はありませんし、開口部は沢山の光を取り込んでいました。「だれも居ないときに道具などは大丈夫ですか」と言う問いには、伊江島には泥棒は居ないよと下門さんは言っていました。
1
彼の仕事は出口彰子と出口正人の共著「石川県邑地潟のチジ舟ー中島町での建造記録」(2004年海の科学館刊)に記録されています。
2
西洋では分厚く掘り抜かれた底部を持つ舟の事をセミダグアウトと呼んでいます。ハタハタは魚の名称です、ハタハタ舟はその魚を捕るために作られた舟です。ムダマハギは日本のセミダグアウト舟に相当します。
3
ヴァーモントから来た私にとっては沖縄の冬は厳しいものではありません。とは言え、私がTシャツで作業した数日を除いて、下門さんは毎日上着を着込んで寒いと言っていました。私は一月の中頃にサバニでのセイリングに誘われた時に沈しました。45分間水に浸かっていたのですが、不快な感じは全くありませんでした。
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1980年横浜の舵社から二部に分かれて日本語で出版されました。サバニについては第一巻に記載があります。
5
東京および千葉の私の二人の先生ともこれらの種類の船を作っていましたが、底板(敷き)の前端部を下げて、横山さんが書いているようなへこんだ底部を形作っていました。しかしながら、そのカーブした底部を作る理由は、狭い船首部をより深く沈ませて船がまっすぐ進みやすくするのだと、両名とも私に語っていました。下門さんはサバニの底は平らだと力説していました。
6
英語版と日本語版とで出版されています。英語名は「沖縄のカヌーサバニ」です
7
この本の中では彼自身が伊江島方言と呼ぶ下門さんの使用している用語を使います。沖縄方言の専門家であるオークランド大学のウエィン・ローレンス教授に依ると、同じ島の隣通しの村でさえ、明白な言語学的違いが見かけられると言う事です。沖縄方言には多くの中国語起源の言葉がありますが、実際言語学的には日本語に連なると思われています。五世紀ころに二つの言語は分かれたと考えられています。琉球歴史言語会は沖縄方言は「方言」ではなく地方言語だと言及しています。
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幸運にも石垣島の船大工、新城安広さんの技法は最近になって彼の弟子、國岡恭子さんに依って記録されています。彫刻の教育を受けた彼女はサバニの複雑な形と木彫りが多く使われる制作方法に惹き付けられました。船大工の奥さんが仕事場で重要な役割を果たす事はよくありますが、一人前の弟子になる事を許された女性は私が知る限り、日本では彼女が最初だと思います。新城さんの生涯は安本千香さんの本「潮を開く船サバニ 船大工新城安広の世界」でも紹介されています。
9
私が伝統的なサバニを見たのは伊江島、西表島、竹富島、名護市、那覇市の博物館でした。石垣島と余の博物館にもサバニがあります。千葉県の安房博物館もサバニを持っています。そしてこの章で話されているサバニは今は東京船の科学館の収蔵品となっています。
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丸木舟は標準語で使用される用語です。白石さんの本ではこの舟の沖縄地方での用語はマルキンニだと述べてあります。
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1994年に秋田県の最後の丸木舟の船大工の話を聞きました。その地方では船首と船尾とはムクのまま使用されます。材が全て腐ってしまうまでの時間を稼ぎ、舟を長持ちさせるために、2フィートほどのムク材の部分が残されるのです。
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この現象は決して沖縄だけの事ではありません。世界中多くの場所で丸木舟から半刳り貫き舟、そして板作りの舟への変遷が見られました。
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セミダグアウトタイプの船が日本で他に多く見られる場所は、国の反対側の端、東北や北海道の地方です。秋田、青森北海道を通して多くの異なった種類のこの種の漁船が見かけられます。それらは厚い、刳り貫かれた材の底部と横の舷側部を特徴として持ち、より一般的な板作りの舟と共に存続しています.
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また、下門さんは決して人工の明かりを使いません。「仕事には暗くなってきたので」と言う事で仕事を終えた事も幾日かあります。なぜ仕事場に照明がないのか聞いてみたのですが「もし照明があったら、いくらでも仕事しすぎちゃいそうだからだよ」との事でした。